松倉城趾から大展望

tozan

2008年11月12日 20:11

久しぶりに飛騨高山は快晴に。
秋の松倉山は今が紅葉の終わり。落葉松が黄色く色づくころです。

先日の高山グリーンツアー「原山・松倉山縦走」では、晴れたものの山並みの展望はいまひとつでした。しかし今日は素晴らしい大展望が広がりました。

そこでふたたび松倉山へ。場所はもちろん松倉城趾。ここは原山のトレッキングコースと同様に整備が進んでいます。笹刈りやかつて二ノ丸にあった案内板を利用したテーブルが設置されていました。
今日は遊歩道を上ってくる市民が少なからずいました。ロンドンから観光に来たというイギリス人カップルも。ここは意外にも欧米からの観光客に人気があるようです。

石垣に沿って遊歩道を上り、最初に見ることができるのは御嶽山。展望地の表示板には東南角櫓跡とあります。櫓(やぐら)は見張り台のことで、東南にある越後谷からの敵襲に備えていました。


本丸からは乗鞍はもちろん、焼岳、穂高連峰から槍ケ岳、そして笠ケ岳などがぐるりと展望できます。

写真の飛騨山脈。右奥に穂高連峰から槍ケ岳、左手前には笠ケ岳。城跡のまわりの木々が成長したためか、昔にくらべると見える市街地の範囲が小さくなった気がします。

そして本丸からは飛騨西部の山並みの上に顔をのぞかせる白山も見ることができます。

松倉城があった戦国時代末期、この同じ素晴らしい眺めを当時の武将も楽しんでいたのでしょうか。
城主の三木自綱(みつき・これつな)が広瀬城(高山市国府町)で金森氏の軍勢に敗れた後、難攻不落だった松倉城は息子たちが守っていましたが、内部からの裏切りにより落城してしまいました。
織田信長の盟友だった自綱(斎藤道三の娘を共に妻にする義兄弟でもありました)ですが、その150年以上前に飛騨に所領を得た頃の先祖は当時の守護代の家来という低い身分。そこから成り上ってきた三木氏は、弱小大名だった織田家を強大にしてきた信長とは近いものを感じていたのかもしれません。
信長の死後、自綱は豊臣秀吉につくことをよしとしなかったようです。それが三木氏の運命を変えてしまいました。

・・・などなど自綱がうまく歴史の流れに乗れていたら、飛騨高山の歴史は変わっていただろうな、と思いながら展望を楽しむ松倉城趾でした。

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